Why Did Japanese Brewers Head to Breweries Around the World? "A History of Japanese Brewers Abroad (1990–2026): Brewers Who Crossed the Seas" 

大阪からアストリアへ。 福岡からリーズへ。山形からオーストラリアへ。 横浜からベルギーへ。そして足利からサンディエゴへ。

日本人は、なぜ世界のブルワリーへ向かったのか?

山形からオーストラリアへ。

横浜からベルギーへ。

そして足利からサンディエゴへ。

日本のクラフトビールを語るとき、どうしても「海外から日本へ入ってきたもの」に目が向く。

IPA、ヘイジーIPA、サワー、バレルエイジング、ニューイングランド。 日本のブルワリーは、世界のビール文化から多くを学んできた。 しかし、逆方向の物語もある。 日本人ブルワーが海を渡り、海外のブルワリーでビールをつくってきた歴史だ。

そして、その歴史をたどっていくと、面白い変化が見えてくる。

1990年代は「海外で学ぶ」。

2000年代は「海外で技術を身につける」。

2010年代は「海外を自分の舞台にする」。

そして2020年代になると、 「日本人ブルワーが、海外のブルワリーから必要とされる」 という時代に入っている。 これは、日本のクラフトビールが成熟してきたことの、ひとつの証拠なのかもしれない。

始まりをどこに置くか 1990年から始める前に、少しだけ時計を戻したい。

『日本のビール醸造の父 中川清兵衛』の英国行きは密航だった。その後、食い詰めて ドイツへ

日本人が海外へ渡ってビール醸造を学んだ最初期の象徴が、中川清兵衛(1848-1916)だ。 明治時代、日本を飛び出した中川はドイツへ渡り、1873年にベルリン近郊のビール醸造所で本格的な醸造修業を開始。 2年以上にわたる厳しい修業を経て、1875年に醸造の修了証書を取得した。 

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/ijin/naka-column01.html

そして帰国後、北海道開拓使麦酒醸造所の醸造主任となる。

現在のサッポロビールにつながる、日本の本格的なラガー醸造の礎を築いた人物だ。

つまり、 日本人が海を渡ってビールを学び、日本へ技術を持ち帰る。 この構造自体は、150年前から存在していた。 ただし、現代のクラフトビールにつながる「海外で働く日本人ブルワー」の物語が大きく動き始めるのは、やはり1990年代だ。

1990年代 石井敏之、San Diegoへ

現代の日本人ブルワー海外史を語る上で、外せない人物がいる。 石井敏之。 1967年、足利生まれ。 1998年、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴへ渡り、まだ創業から間もなかったStone Brewingで3年間働いた。

出典:毎日新聞

現在では世界的なクラフトブルワリーとして知られるStoneだが、石井が入った1990年代後半は、まだ「世界的企業」になる前の時代だった。

石井本人のプロフィールによれば、1998年から3年間、Stone Brewingでビール製造だけでなく、ブルワリー経営やマーケティングまで幅広く学んだという。 ここが重要だ。

石井が学んだのは、単なる「ビールの造り方」ではない。

クラフトビールというビジネスそのものだった。 その後、日本へ戻り、ヤッホーブルーイングでCOO兼Brewerとして8年間活動。 さらに2009年に独立。 そして2010年にはグアムへ渡り、島初のマイクロブルワリーとなるISHII BREWINGを設立した。

日本→アメリカ→日本→グアム。 石井のキャリアは、最初から「海外留学して帰国」という一本道ではなかった。 海外で学び、日本で実践し、再び海外へ出る。

日本人ブルワーの国際化、その最初のモデルのひとつだった。

2000年代 Leo Imai、ドイツからベルギーへ 2000年代になると、さらに面白い人物が登場する。

Leo Imai(今井礼欧)。 1973年、横浜生まれ。 東京理科大学で化学を学び、日本の大手ビール会社に入社。 しかし5年後、自分でビールを造り、販売するという夢を追うため会社を離れる。 そしてスコットランドのHeriot-Watt Universityで醸造を学ぶ。 卒業後はドイツの醸造所で2年間、醸造技術者として働いた。 そして2005年、ベルギーへ。

https://www.belgianbeer.co.jp/ct/brewery/owa/

そこでBrasserie de la Senneに入り、2006年には「OWA」というブランドを発表する。 資料では、これが日本人ブルワーによってベルギーでつくられた最初のベルギービールとして紹介されている。 さらに2007年には独立し、OWA Breweryを設立。 翌2008年にはブリュッセルに自身の醸造所を開いた。 ここで、海外へ行く日本人ブルワーの意味が変わってくる。

石井敏之の時代は、 「アメリカで学び、日本に持ち帰る」 だった。 Leo Imaiは、 「海外そのものを自分の醸造の舞台にする」 という道を選んだ。 日本人ブルワーの活動場所は、日本だけではない。 そう証明した人物だった。 2010年代 海外修業から「国際的なキャリア」へ

2010年代に入ると、日本のクラフトビール市場そのものが大きく変化する。

ブルワリーが増え、IPAが広まり、海外の情報がリアルタイムで日本へ入ってくる。 そして日本人ブルワーが海外へ行く理由も変わっていく。 昔なら、 「海外のビールを勉強したい」 だった。 しかし次第に、 「海外のブルワリーで働きたい」 へ変わっていく。 そして、 「海外のブルワーと一緒にビールをつくりたい」 になっていく。

キャリアの選択肢になった

日本人ブルワーにとって海外は、単なる「学校」ではなくなった。

2020年代 KAORU TACHIBANA

出典:https://takadanobaba.keizai.biz/photoflash/6151/

「海外で学ぶ」から「海外で就職する」へ 1996年、大阪生まれの立花薫。 彼のキャリアは、これまでの日本人ブルワーとは少し違う。 高校卒業後に渡米し、コロラド州立大学で発酵・ビール醸造学を専攻。2019年に卒業すると、そのままオレゴン州アストリアのFort George Breweryに醸造士として就職した。

ここには、1990年代の石井敏之とは明確な違いがある。 石井が海を渡った時代は、日本にまだクラフトビールの醸造技術や職業としての「ブルワー」が十分に確立していなかった。 一方、tachinbanaの世代は違う。

「日本人が海外のブルワリーに就職する時代」の象徴

最初から「世界のクラフトビール産業の中でブルワーになる」ことを目指してアメリカの大学へ行く。 そして、醸造学を学び、卒業後は実際にアメリカのブルワリーに採用される。 つまり立花薫は、 「日本人が海外へ醸造を学びに行く時代」から、 「日本人が海外のブルワリーに就職する時代」への変化 を象徴するブルワーの一人だ。

Fort Georgeでのキャリアは、残念ながら長くは続かなかった。

2019年に大学を卒業して就職した直後、世界をコロナ禍が襲う。Tachibanaは日本へ帰国することになる。 しかし、その経験は無駄にはならなかった。 帰国後、立ち上げ直後だった宮城県気仙沼市のBLACK TIDE BREWINGに参加。 レシピ作成から仕込みまで、醸造全般を担当した。2020年には新しい醸造士として加わり、ビールの質と生産量の改善にも携わっている。 その後はフリーランス醸造家として活動し、2025年時点では横須賀のGRANDLINE BREWINGで醸造責任者を務めている。

さらに興味深いのは、立花が単なる「海外経験者」で終わっていないことだ。 2023年、2025年にはInternational Beer Cupのジャッジとしても名前を連ねている。 大学で醸造を学び、 アメリカで働き、 日本に戻り、 日本のブルワリーを立ち上げ、 そして国際的なビール審査の側にも立つ。 このキャリアは、2020年代の日本人ブルワーの新しい形と言える。 海外へ行くことは、もう「修行」だけではない。 海外で働いた経験そのものを持って、日本のクラフトビールシーンに戻ってくる。 立花薫という存在は、その変化を象徴している。

Naru Handa――オーストラリアから日本へ その象徴のひとりが、半田成(Naru Handa)だ。

提供:ご本人

山形県出身。 酒類食品の卸・輸入会社で経験を積んだ後、醸造の道へ進み、うしとらブルワリー、CRAFTROCK BREWINGで醸造を担当。

その後、オーストラリアへ渡り、Sailor’s Grave Brewingで醸造責任者を務めた。 そして2023年に帰国。 ここで重要なのは、「オーストラリアに行った」ことではない。 海外のブルワリーで責任あるポジションを任されたことだ。 そして帰国後、半田は宮城県山元町でFaló Brewingを立ち上げる。 廃校となった中学校を醸造所へとリノベーション。 2025年10月にはビール醸造免許を取得した。

さらに面白いのは、その後だ。 海外で終わらなかった。 Sailor’s Graveとの関係は日本へ戻ってからも続き、両者は共同で「キャリアの選択肢になったを製造。

Sailor’s Graveは半田を「ex-brewer Naru Handa」と紹介し、日本とオーストラリアをまたぐリモートコラボレーションとしてビールをつくっている。 (Sailors Grave Brewing⁠)

つまり、 日本 → オーストラリア → 日本 → オーストラリアとのコラボ という新しい循環が生まれている。 これは昔の海外修業とは違う。 技術だけではなく、 人脈も、価値観も、友情も持ち帰る。

それが2020年代の海外経験なのかもしれない。

出典:https://www.brewersjournal.info/28688-2/

「世界レベルのブルワーになるために」 福岡からリーズへ

Suguru Hayashi――福岡からリーズへ そして現在、この物語を最も象徴的に見せてくれるのが、 Suguru Hayashi(林優)だ。

福岡(FUKUOKA CRAFT BREWING)からイギリス・リーズへ。 彼が目指したのは、世界レベルのブルワーになることだった。 最初に大きな影響を与えたのが、Burnt Mill Breweryだった。 そこで英国の醸造文化を経験し、技術を学び、人間関係を築く。 そしてNorthern Monkへ。 現在、SuguruはNorthern Monkの醸造チームの一員として活動している。 そのストーリーを象徴するビールが、 「Tomodachi」 だ。 日本語で「友達」。 Burnt Millとのコラボレーションとして生まれたこのビールには、Suguruが英国で築いてきた人間関係と技術的な成長が詰まっている。

Burnt Mill x Northern Monk Tomodachi British Pale Ale 4.6% (440ml can)

Northern Monkは、Suguruだけではなく、日本のブルワリーともつながっている。 山梨のうちゅうブルーイングとのコラボレーションだ。

日本のブルワリーが海外の有力ブルワリーとコラボする。 海外で働く日本人ブルワーが、その間をつなぐ。 そして、そのビールが日本へ戻ってくる。 もはや、 海外→日本 という一方通行ではない。 日本→海外→日本。 さらに海外→日本→海外。 ビールは循環している。

日本人ブルワーは「何人」いるのか? ここで、ひとつの疑問が出てくる。 現在、海外で働いている日本人ブルワーは何人いるのか? 実は、この数字を正確に示す公的な統計は存在しない。 海外のブルワリーに所属する日本人ブルワー、過去に勤務した人、駐在、研修、自分のブルワリーを海外で経営する人など、定義もバラバラだからだ。 重要なのは、誰が、どこへ行き、何を学び、何を日本へ持ち帰り、何を海外へ残したのかだ。 そこには、日本のクラフトビールの成長そのものが映っている。

海を渡る理由は、変わった この30年を振り返ると、ひとつの変化が見えてくる。

1990年代 「海外で学ぶ」

石井敏之がStone Brewingへ。 まだ日本では知られていなかったクラフトビールの文化を、本場で体験する。

2000年代 「海外で技術者になる」

Leo Imaiのように、スコットランド、ドイツ、ベルギーと渡り歩き、海外で自分のキャリアを築く。

2010年代 「海外をキャリアの選択肢にする」

日本人ブルワーが世界の醸造文化へアクセスするようになる。

2020年代 「世界のブルワリーで、日本人が必要とされる」

Naru Handa。 Suguru Hayashi。 海外のブルワリーで醸造責任者や醸造チームの一員として働く。 ここまで来ると、もう「海外修業」という言葉だけでは説明できない。

海外へ行ったブルワーは、何を持ち帰るのか? ビールのレシピだけではない。 むしろ重要なのは、 考え方だ。 どうやってブルワリーを運営するのか。 ブルワーは何を判断するのか。 品質管理をどう考えるのか。 チームをどうつくるのか。 原料とどう向き合うのか。 そして、 ビールをどう文化として捉えるのか。 海外で働いた日本人ブルワーたちは、それぞれの場所で技術だけではなく、その土地の「ビールの考え方」を吸収してきた。 そして日本へ戻った人たちは、それを自分のブルワリーで形にしていく。

そして、次の時代へ 中川清兵衛がドイツから持ち帰ったのは、近代的なラガー醸造の技術だった。 石井敏之がアメリカから持ち帰ったのは、クラフトビールという文化とビジネスだった。 Leo Imaiは、海外そのものを自分の舞台にした。 半田成は、オーストラリアで得た経験を宮城で新しいブルワリーへ変えた。

Suguru Hayashiは、福岡からリーズへ渡り、英国のブルワリーの一員になった。 そして「Tomodachi」という一本のビールをつくった。 ここまで来ると、ひとつのことに気づく。

最早、日本のビール文化そのものが、世界のクラフトビールシーンの一部になっているのだ。

日本人ブルワーが海外へ行くことは、日本のビールが海外から学ぶことだけではない。 日本のビール文化そのものが、世界のクラフトビールシーンの一部になっているのだ。 海を渡ったブルワーたちは、海外から何かを持ち帰る。 同時に、日本から何かを持っていく。 技術。 味覚。 文化。 そして人とのつながり。 だから、日本人ブルワーの海外史は、 「海外修業の歴史」ではない。

これは、 日本のクラフトビールが、世界とつながっていった歴史だ。

そして2026年。 まだこの年表の最後には、空白がある。 次に海を渡るのは誰なのか。 どこのブルワリーへ行くのか。 そして、その人は10年後、日本と世界のビールをどう変えているのか。

日本人ブルワーの海外史は、まだ終わっていない。

本日のおまけ動画

共に 僕らの道を行こう
共に いつか旅立とう
共に 手を取り合って
共に 計画を立てるんだ

自由な空気の場所で
なりたいものになるんだ
今 僕たちが立ち上がれば

歌詞は、19世紀アメリカ西部開拓時代を反映した内容になっているとともに、ゲイのユートピアとされる西部サンフランシスコへの憧れが暗示されている。

なお、曲名の「ゴーウエスト(Go West)」の由来は、19世紀アメリカ南北戦争が終結した直後に、新聞編集者のホレス・グリーリー(Horace Greeley/1811-1872)が残した次のような論説が語源とされている。約束の地が見つかるだろう。『Go West』はフットボールサポーターの応援歌・チャント(チャンツ/chants)として世界的に広まっている。日本でもJリーグの浦和レッズ(アーレ フォルツァ浦和レッズ)や横浜FC(アーレ ブルビアンコ)、日本代表(オーレー オオ日本)などが有名。

 

※写真や資料の引用についてはその引用先を明確にして、細心の注意を持って情報を取り扱っていますが、不備な点等 ございましたら何なりとご一報ください。訂正、又は削除致します。